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旦波王国(基本情報) [ヤマト政権以前の近畿王朝]


ヤマト王朝以前の近畿の王朝説を取り上げるカテゴリの投稿です。



弥生後期から古墳時代にかけて、近畿の日本海側に、「旦波(太迩波、タニハ)王国」が存在したことは確かです。

旦波王国の範囲は、後の丹後、丹波、但馬、若狭を合わせた地域です。

そのため、「大丹波王国」とか、丹後地域が中心であったので「丹後王国」と呼ばれることもあります。


古代においては、大型船が通れなかった瀬戸内海よりも日本海の方が重要な航路であったため、出雲、旦波、若狭、敦賀、越といった日本海側の地域に発展した国が多く生まれました。


旦波は、近畿における大陸・半島文化の入口であり、旦波から近江を経由して、一方で山城、摂津、大和、河内といった畿内の国へと、もう一方で、尾張、伊勢、駿河、毛野(関東)といった東国へと交易のルートが築かれました。


旦波王国は、近畿最初の王朝であり、ヤマト王権の成立にも大きな役割を果たし、初期のヤマト王権で影響力を持っていた、そして、記紀が記載する初期の天皇の系譜には、旦波王統が反映しているとする説があります。



最初のこの投稿では、まず、旦波王朝を考える上で基本となる情報を簡単に紹介します。


その後、上記のような説を主張する、伴とし子、佐藤洋太の説を紹介する投稿につなげます。


伴は、旦波王朝から応神王朝へと王朝交代した、佐藤は旦波王朝から物部氏の崇神王朝へ王朝交代したと考えます。



<旦波の遺跡、古墳、出土品>


最初に、旦波で見つかっている遺跡、古墳、その出土品について、主なものを紹介します。


まず、BC2Cから紀元前後にあたる日吉ケ丘遺跡は方形貼石墓で、丹後最初の王墓であったと推測されています。


旦波の弥生時代の鉄製品の出土数は、平成14年初頭の時点で、丹後からは330点、但馬、丹波、山城を合わせると432点ですが、大和はわずか13点にすぎません。


古墳時代には、丹後には5000基、丹波には2500基が見つかっています。


4-5Cには、日本海三大古墳である、200m級の網野銚子山古墳と神明山古墳、150m級の蛭子山古墳があります。


4C末-5Cの方墓である大田南2号墳からは、卑弥呼の50-100年前に当たる2C後半の後漢製の画文帯神獣鏡が出土しています。


また、大田南5号墳は、同じく方墳で、卑弥呼が遣使する4年前の魏の青龍三年(235年)の方格規矩四神鏡が出土しています。


5C前半の前方後円墳である大谷古墳は、女性首長と思われる熟年の女性が埋葬されていて、三種の神器が出土しています。


また、5C末-6Cの、国内最古のたたら式製鉄炉跡の遠處遺跡があります。

製鉄炉が8基、鍛冶炉が12基あり、製鉄から精錬・加工までの一貫した生産工場でした。



以上から、旦波は、非常に古くから半島や大陸と交流があり、古墳時代には豊富な鉄の生産力を誇っていたことが分かります。



<日本書紀の旦波>


次は、「日本書紀」における旦波の記述と、そこから想定される可能性についてです。


「日本書紀」によれば、丹波の竹野媛が、開化天皇の妃となっています。

垂仁天皇は、丹波道主命の娘5人を娶り、そのうち日葉酢媛命は第二の皇后となり、景行天皇を生みました。


そして、崇神天皇が、日本各地(四地方)を支配するために派遣した四道将軍の1人が丹波道主命です。

丹波道主命は、開化天皇の孫です。


同じ開化天皇の孫の狭穂姫命は、垂仁天皇の皇后でしたが、兄の狭穂彦王の謀反に参加し亡くなりました。

この時、狭穂姫命の要望に従って、垂仁天皇は、丹波道主命の娘たちを娶ったとされます。

ですから、謀反を起こした狭穂彦・狭穂姫は、丹波と関係が深かったことが推測されます。



通説では、崇神天皇より古い天皇は実在性が疑われていますが、このように、崇神天皇の前後で、ヤマト王権と旦波の関係勢力との間には、婚姻関係や戦いがあったようです。


このことは、前ヤマト王権時代に旦波が大きな力を持っていた可能性を示しているのかもしれません。



<海部氏系図に見る旦波>


丹後一ノ宮の籠神社の祠官を務めてきた海部氏が、秘伝として伝承してきた「海部氏系図」と、附の(付加的な文章を付けた)「海部氏勘注系図」は、日本最古の竪系図として国宝に指定されています。

ですから、これらは、史的価値が高いものとして、一定の評価を得ているのでしょう。


ですが、これは、作者も作成時期も不明で、後世の偽作部分があるという指摘もされています。

そして、物部氏の史書の「先代旧事本紀」の尾張氏の系図を引き写ししている部分があると。(宝賀寿男「越と出雲の夜明け」2009・法令出版)


そうであったとしても、古くから伝承されてきた部分もあって、その伝承が歴史的事実を反映している可能性もあるでしょう。


系図によれば、海部氏は、彦火明命を始祖とし、尾張氏、そして、丹波国造家と同族です。

そして、海部氏は6世孫の建田勢命の時に大和に移住しました。


他にも、海部氏が前ヤマト王権の王統であることを示すような記載がありますが、詳細は後述します。



<門脇禎二が認めた丹後王国>


次に、正統派の歴史学者も丹波王国の存在を認めていることを紹介します。


地域国家論で知られる門脇禎二は、「日本海域の古代史」(1986・東京大学出版会)で、丹後には、地域独自の王権とその支配体制、政治領域、独自の支配イデオロギーの3つが認められることから、丹後が「王国」であったと論証しています。


門脇は、記紀を基に、竹野川流域を中心にした5代に渡る男系タテ系図を復元しましたが、

これは、丹波大県主の由碁理に始まり、四道将軍の丹波道主王の子までの5代です。


彼は、古墳が築かれる4Cから5Cにかけてが、丹後王国の最盛期だったと言います。


ですから、彼は、丹後王国が前ヤマト王権的な存在だったと主張しているのではありません。



<長野正孝の航路から見た丹後王国>


海洋史、土木史研究者が専門の工学博士である長野正孝は、航路や技術の側面から、日本古代史を研究し、独自の歴史観を打ち出しています。


彼の歴史観は、「古代史の謎は海路で解ける」(2015・PHP研究所)、「古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける」(2017・PHP研究所)などで知れます。


彼は、5Cの雄略天皇の時に瀬戸内海航路が開かれるまでは、大きな船は瀬戸内海を通ることはできず、それまでは日本海が主要な航路であり、日本海側の国々の方が栄えていたと主張します。


日本海側には、入江、河口、潟湖に弥生時代の遺跡が点々と続いていて、翡翠の産地である富山の姫川に至る、鉄・翡翠の交易ルートがありました。

由緒ある神社は、港の交易跡です


長野によれば、2世紀に、丹後の大宮売神社からの船を運ぶ山越えの道を経由して、敦賀に至る交易ルートができました。

これによって、2C半ばから4C頃まで、丹後王国が栄えました。


当時、瀬戸内海は大きな船は通れなかったため、山城、大和へも丹後を通ったのです。


ですが、4C後半の応神天皇の時に大型帆船が作られて、丹後をスルーできるようになり、それ以降は、丹後王国に代わって、敦賀王国が栄えるようになりました。



続く投稿



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