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葛城王朝(鳥越憲三郎) [ヤマト政権以前の近畿王朝]

ヤマト王朝以前の近畿の王朝説を取り上げるカテゴリの投稿です。



一般に、崇神天皇よりも古い、神武天皇と欠史八代の天皇は、実在しないと考える学者がほとんどです。


ですが、歴史学者の鳥越憲三郎は、「神々と天皇の間-大和朝廷成立の前夜」(1970・朝日新聞社)で、この九代が、ヤマト王朝以前に存在した「葛城王朝」を示していると主張しました。


つまり、葛城氏による王朝が大和における最初の王朝でしたが、纏向を本拠にする崇神天皇によって王朝交代が行われたというのです。



<葛城王朝の存在と王朝交代の論拠>


葛城王朝が存在した最大の根拠は、神武天皇から第六代孝安天皇までの宮が、葛城山麓から畝傍山にかけての、葛城の領域にあることです。

それに加えて、「日本書紀」によれば、初期の后も葛城の領域の中から娶っています。


これは、初期天皇とされている人物が、葛城王朝が地域の部族国家だった頃の首長だったということです。


そして、第七代孝霊天皇以降、宮が葛城以外の大和に作られることが多くなり、妃もそれら地域から娶られるようになります。


これは、葛城王国が、大和全域へと支配地を広げて真に王国化していったことを示しています。



ですが、第十代崇神天皇は、「日本書紀」によれば、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という、「古事記」の神武天皇と同様に、初代国王を示す名を持ちます。


そして、崇神天皇から第十二代の景行天皇までの宮は纏向にありましたが、この大和東南部は、葛城王朝の勢力が及んでいなかった地域でした。


また、崇神天皇と次の垂仁天皇の時に、葛城王朝の最後の第九代開化天皇の異母弟と孫による謀反が2度起こっています。


これは、崇神天皇の時に、王朝交代があり、武力闘争があったことを示しています。



以下、鳥越氏の説に従って、時系列で葛城王朝の誕生と滅亡についてまとめます。



<神武東征>


鳥越憲三郎は、神武東征や天孫降臨の神話は、もともと葛城氏の神話であったと推測します。


葛城氏は、おそらく筑紫から出発し、紀の川を遡って金剛山麓に辿り着き、部族国家を築きました。

この大和東遷には何世代もかかったかもしれません。


葛城氏が大和入りで戦った相手は、物部氏です。


「日本書紀」では、物部氏の始祖の饒速日命が、河内に降臨し、大和の鳥見に移り、長髄彦の妹を娶りました。

ですが、神武天皇に帰順しなかった長髄彦を饒速日命が殺したとされます。


ですが、鳥越健三郎は、長髄彦は物部氏の首長だったと推測します。

物部氏が天皇家と敵対したことを避けるため、後世、長髄彦を物部氏と分けたのです。


物部氏の系図では、饒速日の子と孫がどちらも宇摩志麻遅命になっているのは不可解で、孫の本当の名が長髄彦だったのだろうと。


ただ、実際に、葛城氏が物部氏を支配下においたのは、第七代もしくは第八代天皇の時です。


このように、実際の東征は、何世代かで行われたものですが、記紀神話ではこれらを神武一人の事績にしました。



<天孫降臨>


葛城氏は、金剛山の中腹の台地を本拠地とし、金剛山を「高天山」と呼んでいました。

ですから、この彼らが住んでいた場所が「高天原」に当たるでしょう。


「日本書紀」の本文では、「天孫降臨」の司令者は、高皇産霊尊です。

記紀神話では、高皇産霊尊(高御産巣日神)が事実上の主神です。

高御産巣日神は、葛城氏が高天彦神社で祀っていた神です。


この神の名は、「高みに生まれた日の神」を意味します。

一般に、生産の神とされますが、これは、後に、同じ太陽神であった天照大神との差異化のために、そう理解されるようになったのでしょう。


ちなみに、「古事記」では天照大神も「天孫降臨」の司令者となっていますが、天照大神は崇神天皇が祀り始めた葛城氏以外の神であり、葛城氏の天孫降臨伝承に付け加えられたのです。


葛城氏が最初に支配下に置いたのは、鴨氏です。

「日本書紀」では、神武天皇は、事代主の娘、つまり、鴨氏から后を娶っています。


日本書紀では、国譲りの判断をしたのは、大巳貴命ではなく事代主神です。

事代主神は鴨氏が祀った神であり、本来、出雲とは無関係な神です。

ですから、国譲りは、本来、鴨氏が葛城氏に対して行ったものだったのです。


つまり、葛城氏が、金剛山の南山麓の低地の鴨氏の農地に下山して、ここを統治して部族国家を作ったことが、天孫降臨と国譲りの神話の元になった歴史的事実だったのです。



<大和平定>


鴨氏から国譲りを受けて部族国家を作った葛城氏は、その後、徐々に支配地を広げていきました。


ちなみに、第四代天皇までの墳墓は、畝傍山麓にあるので、葛城氏にとって畝傍山が冥界とされていたのでしょう。


第五代孝昭天皇は、尾張氏の遠祖の女を娶っていますので、この時に「高尾張氏」を支配下に置きました。

高尾張氏は、葛城の高尾張にいた氏族で、東海に移った支流が尾張氏です。

「日本書紀」では、土蜘蛛とされましたが、後に火明命の後裔で、物部氏と同族であると偽作されました。


鳥越氏は、鴨氏、高尾張氏は葛城氏の領域内の氏族であり、葛城王朝はこの時まで、部族国家であったと考えています。


第七代孝霊天皇の時、初めて宮を、葛城の領域ではなく、大和平野の中央部(磯城郡西端)に置きました。

これは、大和の他の部族を支配下に置いたことを示しています。


第八代孝元天皇は、宮を旧領地に戻しますが、物部氏の女を娶っています。

これは、大和西北部や河内を影響下に置いたことを示しています。


第九代開化天皇は、宮を大和平野の北東部に置き、物部の女を后に、丹波の女を妃に娶りました。

これは、山城・丹波にまで影響下を広げたことを示しています。



<崇神天皇の纏向王朝>


大和の中で、葛城王朝の勢力が及んでいなかったのは、東南部でした。


ここには、和邇氏、穂積氏、磯城県主がいました。

そして、三輪氏が、和泉の陶邑から招かれました。


先に書いたように、大和朝廷(三輪王朝・纏向王朝)を始めた崇神以降の三代の宮は、三輪山麓近くの纏向にありました。

この間は、大和朝廷の基礎作りが行われたのでしょう。


崇神の宮の磯城瑞離宮は、実際には纏向の穴師にありました。


崇神天皇が、太田田根子に三輪の神を祀らせたのは、崇神天皇が磯城の出身ではないことを示しています。


延喜の制では、纏向の穴師にある穴師坐兵主神社は、大神神社、倭大国魂神社、石上神社とともに最高位の大和の神社とされています。

それにもかかわらず、この神社を祀る氏族がまったく記録に残されていません。


また、「大倭本紀」では、天の岩戸から天照大神を引き出す時に、三面の鏡が作られ、それぞれ、伊勢神宮、紀伊の国懸神宮、穴師坐兵主神社に納められたと書かれています。


おそらく、穴師坐兵主神社は、崇神の出身氏族が祀ってきて、崇神も個人の守護神として祀ったのでしょう。

そのため、意図的に、王家の出身を隠したのでしょう。



<その後の葛城氏>


神武天皇の論功行賞者に葛城剣根、葛城国造が記載されています。

この葛城剣根は、葛城王朝の初代もしくは第二代の王(首長)の名であるかもしれません。


葛城氏の本宗は、開化天皇の世代で滅亡しました。


孝元天皇の息子の曾孫に当たるのが武内宿禰です。

その子の葛城襲津彦が、葛城氏を復興しました。

他に武内宿禰の後裔とされるのが、平群、巨勢、紀氏、蘇我、石川などです。


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